2007年08月19日
大阪城
大阪で人に会う用事があり、その後時間ができせっかくなので大阪城に行ってみました。最近外国人から声をかけられることが多く、この日もバックパッカー的な風貌の女性が至近距離から大阪城をデジカメで撮って、かつ自分もちゃんと写真に入れてとってほしいと言い出すのです。あまりにも至近距離で無理な話なのですが、チャレンジしてみました。結果、口から上(顔がきれていますが)をいれ、その分大阪城の全体やうえのほうも全部入れて撮る事ができました。5、6回もチャレンジして協力しているのになんだか不満そうなのです。少し離れれば本人も大阪城も撮れるのにどうも至近距離でのショットにこだわっていたようです。(大阪城を少しでも大きく、そのままに撮りたかったようです。)一応に外人も大阪城が雄大で気に入ったようで、最後は希望のアングルが撮れないことにも納得していました。(本当にわがままな外国人に出会ったものです。)
こうやって大阪城をゆっくり見たのは初めてです。そう高いビルがなかった昔は多分、どこからも城は
見えたのでしょう。大阪城も豊臣家が滅ぼされるときに炎上したのですが、徳川秀忠が再建をして時代、政権が変わった事の象徴に当時の大阪では写ったでしょうね。
城内に「南無阿弥陀仏」と書かれた大きな記念碑が立っていて、後でわかったのですが、大阪城のこの場所に蓮如の石山本願寺があった事をしるすものだったのです。全然知らなかったです。石山本願寺があった場所に大阪城ができたときにも同様に時代、政権が変わったシンボルだったような気もします。でも大阪人は太閤びいき、家康嫌いといわれ大阪城をつくったのも秀吉といわれ
そう思われていたのも当時の大阪が豊臣により栄えたことなのか?徳川のイメージが大阪との結びつきが薄いからなのでしょうか?今の原形は徳川幕府により再興されているのです。(あの巨大な石垣は徳川時代に日本各地から運ばれたものなのです。)そのまえに、この場所を選び大坂御坊と呼ばれた小さなお寺をつくったのが蓮如で、そのあとここに、石山本願寺があったのは大阪のひとはあまり知らないと思います。
日本も新たにまた、時代、政権が変わる必要に迫られているようです。でも人をひきつけるシンボルがなんだか足りていないようです。それからすると昔の人のほうが演出はうまかったのでしょうか?